古典落語-後生鰻

最近、区の図書館で古典落語の本を3冊借りて読んでいます。

シナリオの本を読んでいて落語が例に載っていてそのストーリーにびっくりしました。
自分は落語などは、古くさいイメージでTVでやっていてもあまり見ることもなかったのですが落語のストーリーの中にも自分が好きな「道徳的テーマを感じさせる物語」が表現されているのです。



「後生鰻(ごしょううなぎ)」

過ぎたるは、及ばざるが如しということがありますが、まことによい戒めでございます。馬喰町にお住まいになるご隠居さんが、大層な信心家で浅草観世音が信仰で今日もお参りをして帰りがけ、蔵前通りを天王橋のそばまで参りますてえと、このごろ店をだしたばかりの鰻屋、ご隠居さんヒョイと見ますと、ちょうど亭主が裂台で鰻に目打ちを立てようとするから驚きました。
「ああ、これこれ何をするンだ」
「へえ、鰻をさいて蒲焼にしますンで・・・・」
「では、鰻を殺すのかい。物の命をとってそれを食えばどうなる、殺生をするな」
「そんなこといった日にやァ家業にやァなりません」
「なるもならぬも私の目にとまった以上はどうしても殺させる訳にやァいかねえ。観音様の帰り道、おれの目に付いたのも助けてやれとのお導きだ。ただ助けろとはいわぬ、他の客にも売るのだから、それだけの金をだしたら売ってくれるか」
「さようですなぁ、そりやァもうどなたに売るのも同じことでございますが・・・へへ、ちと不漁つづきで高うございます」
「千両はしまい」
「ええ、千両は致しません、お負けして二分でございます」
「ああ、もうひと足おれが遅く通ると殺されるところだ、コレ鰻、こののち必ず人の目にとまるようなところにいるなよ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 因果をふくめまして、天王橋から川の中へポチャンと逃がしまして、
「ああいい心もちだ」
と喜んで帰りました。サァそれから毎日鰻屋の前を通るたびに、亭主が鰻を裂こうとするを見ては買って逃がしてやりました。
 鰻屋の方ではいい金箱ができたとご隠居の通る時刻を見はからって鰻を裂くようにして居りましたが。
 休みの日、鰻も鰌(どじょう)も仕入れてございません。その時、向こうのほうからご隠居がやってきました。
「ちょいとお前さん、今日もご隠居さんがやってきたよ」
「ウム、きた、きた、だが今日は休みで、鰻も鰌もねえ、おい何か生きているものはねえか、猫はどうした」
「どっかへ遊びに行っちゃったよ」
「しょうがねえな、段々近づいてきたよ、え、何か生きてるものはねえか・・・何か・・・ああ、その赤ん坊だしねえ」
「お前さん何するンだよ」
「いいから、いいから」
 ここで赤ん坊を裂台の上にのっけて、裂く真似を致しております。
 ご隠居は見てびっくりしまして、
「これ、これ、何をする。赤ん坊を殺そうとするとは何てことだ」
「へえ、お客さんのご注文で」
「バカをいえ、世の中に赤ん坊を食う奴があるか、私の目にとまったからには、どうしても殺させる訳にゃァいかねえ。おれが助けてやろう」
「どうも、このごろ赤ん坊が不漁つづきで」
「赤ん坊おのシケがあるものか、いくらだ」
「お負けして七両二分」
「安いものだ、さあ、金を渡すよ」
「ありがとうございます」
「おお、よし、よし、泣くな、おれがもうひと足遅れたら、殺されるところだった。こおのち必ず人の目にとまるようなところにいるなよ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」
 因果をふくめまして、赤ん坊を天王橋からドブーン--------------。
へえ、お退屈さま。



はじめのほうに語っている「過ぎたるは、及ばざるが如し」ということがまさに、テーマだと思うのですが、こんなに短い話のなかにでも、表現できるというのには関心しました。
 こういったお話が作れると、物語づくりが楽しそうなんで目標にしています。
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comment

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[過ぎたるは、及ばざるが如し]どんなことでもやりすぎることはいけない。何事にでも当てはまるようないい言葉だと私は思います。(話それちゃった)意外にも昔からちゃんとした物語や落語が作られていたんですね。ちょっと違うと思いますが、言われてみれば歌舞伎や演劇もにたような感じがします

いつもコメントすみません

「過ぎたるは、及ばざるが如し」、常に、戒めとしていなければならない言葉ではないかと思います。
 物語がこの言葉を具体的な人物、事件であらわしているのがとても面白いと思いましす。


歌舞伎などにもそういう話はあるんでしょうね。歌舞伎はさすがに理解するのが難しそうですが。


「道徳的テーマ性のある物語」が好きと書きましたが、落語「後生鯰」が語っているように
「戒めになる物語」また、「問題を提起している物語」も好きだと、改めて思いました。

自分が好きな「道徳的テーマ性のある物語」とはちょっと違うのかもと思うのですが、すごく
面白いお話がありましたので紹介させていただきます。


有名な古典落語 -「寝床」

「ああ繁蔵(はんぞう)、おおきにご苦労だった。すっかり回ってきたかえ」
「へぇ、行って参りました」
家主の旦那(だんな)が今夜、義太夫(ぎだゆう)を語る
ことになって、そのことを繁蔵という番頭頭(ばんとうがしら)が長屋の衆に伝え回って帰って来たところから始まる。

回った先は、提灯屋、豆腐屋、金物屋などおおぜいだが、その店子(たなこ)の連中は皆、旦那の下手糞(へたくそ)な義太夫を聴きたくない。だから何とかかんとか理由をつけて断る。
店子の連中の断りかたは一応もっともらしいのだが、実は苦しまぎれの口実で、そこにはかえって連中の本音がうかがえる。店子の連中が一人も来ないと知った旦那は店の者はどうかと矛先(ほこさき)を変えた。こちらもまた脚気(かっけ)、胃痙攣(いけいれん)、神経痛などを理由に」誰も来ないと知って、では、お前はどうなんだと繁蔵に聞く。
「いま、お長屋を全部巡ってまいりまして。・・・あたくしは因果と大丈夫でござんす。
 よろしゅうございます。・・・覚悟いたしました。さあ、うかがいましょう。
 さあ、お語り」
言われた旦那が爆発した。
一生、義太夫は語らない。長屋の者は明日限りで明け渡してもらうし、店の者には暇を出すと言い出したため、困った長屋の連中、店の者が今度は、是非とも旦那の義太夫が聞きたいと申し出てくる。初めは、旦那はヘソを曲げてしまってウンとはいわないが本心は義太夫を語りたくてたまらないわけだから、だんだん機嫌を直して行く。
 再び「義太夫の会」が行われる運びとなり、長屋の連中は、内心いやいやながら、表向きは喜んだような顔をして集まってくる。旦那の方はすっかりそれに乗せられて有頂天になり
「今夜はみっちり語りましょう」などと言い出すので、連中はガッカリ来る。


最後には長屋の衆、店の者たちは、皆、居眠りをはじめ、夢中で義太夫を語っていた旦那がふとそれに気づいて呆れ返る。

 聴衆の中で一人だけ泣いている定吉(さだきち)という小僧がいるのに、旦那は感心して
どこで、感動したのかと演目を並べたが首を振るばかり。
「そんな所じゃありません」
「そうじゃない?じゃァどこだ?」
「あすこでございます」
「あすこは、今、私が義太夫を語った床じゃないか」
「あすこが私の寝床でございます」


僕は問題を提起している物語のほうも好きです。
それは本来人が目を向けたくないところにスポット
を当てていますから。物語を読んだ後は、
少しテーマを考えさせられます。

二つ目の落語を紹介してくれてありがとうございます。
まだまだ勉強不足なのでちょっとついてこれませんでした。
すいません。やはり国語力はかなり大切ですね。

見終わって、何にかついて考えさせられようなもの僕は好きですね。
この物語を作ったひとはそれを言いたかったのか?と感じ、物語に納得できたときに
面白い、すごいなって関心します。そういうものだた、ずーっと作品が頭にのこっているしまた、見てみたいなって思うんです。

このあいだ、深夜に「THE NET]という映画をやっていたのですが、インターネット、コンピュータに依存しすぎるとこんな問題がありますというようなものを感じて、見終わってちょっと感動しました。

本に載っていた落語の寝床のあらすじを分かりやすくしようと自分がすこし手を加えて書いたのですが、かえって伝わりにくくなってしまったかもしれません。

読み返してみたら、説明不足のところがあるかもしれません。
「寝床」のオチが分かりにくかったでしょうか?

旦那さんが、趣味の義太夫を語りたくて義太夫の会をひらいたのですが集まった、人たちはみんないやいやだったので義太夫を聴いていたら眠くなってきて、みんな居眠りをしてしまいます。
 旦那は、そんなに自分の義太夫を聞きたくなかったのかと呆れ返ってしまいます。

そこに一人、小僧、ワンワン泣いていて、それを旦那は自分の義太夫に感動して泣いているのかと思って、どのお話で感動したんだいと、お話の題名を尋ねるが、小僧は首を振るばかり。

子供が答えたのが、旦那が義太夫を語っていた場所を、答えます。

つまり、小僧の寝る場所が、旦那が座っていた場所だったんです。

すみません
わかりずらいかもしれませんが、この子供が多分、旦那の店で働く小僧で夜、寝ていた場所が旦那が義太夫を語っていた場所だった。

それで、周りの大人たちが寝てしまい、自分も眠たくて仕方なかったんですが普段寝ている場所に旦那がいたので寝るに練れなくてワンワン泣いていたということなんだと思います。


つまり、子供も、義太夫を聞きたくなかったんですね。
それを知った、旦那のさらに呆れ返る姿を想像するとおかしくて、
たまりませんでした・・・
どうでしょうか?説明になっているといいのですが・・・

なるほど。 義太夫はやはり子供でも聞きたくなかったという
結末で、さらに後で旦那があきれてしまう姿が思い浮かぶという感じでしょうか。
間違ってたらごめんなさい。

だけど寝床まで奪われるのはかなりきついですね。
ある事情でベットに寝れずにソファーで寝ている感じだとおもいます。

旦那の義太夫が下手糞なので、大人たちは、眠いのが我慢できなくなって居眠りをしてしまったのですが、この一人泣いていた小僧は、まだ、子供なので、眠くなって来たときに、寝るのはいつも寝ている場所じゃないといけないと考えたんだと思います。
だから、旦那がどくまで寝てはいけないと、ずーっと一人、我慢して聞いていたんだと思うのです。
 子供は素直なので・・・
その子供の悪気のない返事が、自分の寝る場所は旦那が、義太夫を語っていた場所で、旦那が邪魔で、寝れなくて、ワンワン泣いていたということです。

つまり、その返事の意味するところは「旦那の義太夫は眠くなるくらい下手糞だ」ということを間接的にですが、旦那に向かって言っているといえることになるのだと思いました。


2つの落語は、物語のタイプの典型的な例では?とちょっと、思いました。
自論なので、間違っているかもしれませんが。

物語を作るのに2つのコースがあると、最近読んだシナリオ作法48章にありました。

1つのコースとしてテーマを考えて、テーマにあった、時代、場所、状況、登場人物を考えて、ストーリーを作るタイプ

もう一つは、時代、場所、状況と登場人物を考えて、人物が勝手に動きだしてその結果がストーリーになるタイプ

です。

「後生鯰」は、テーマを感じる物語のようですし、「寝床」は、人物がよく描けている(人物の性格や表情までイメージできる)と感じました。

 ドラマとは、究極の目標は「人物を描くこと」と書いてあったのですが、そういう意味では寝床はドラマになっているのかななんて思いました。

自論なので間違っているかも・・・


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syarekoube

Author:syarekoube
しゃれこうべとあずいの2人によるブログです。
主にアクションゲーム制作について発表しています。
あと、数学の研究です。

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